よしりんの投稿より引用です。
釈迦の提唱した瞑想を現代科学、とくに比較解剖学と発生学と量子力学で考察する。Xでは長文は嫌われるので学術的興味のある人のみ投稿を見てもらいたい。瞑想にはヨーガでする方法、仏教の各宗派で行う方法(とくに禅宗ではその方法が沢山あります)、キリスト教では修道士らの日課には瞑想が日課であるし、イスラム教でも呼吸瞑想を初め様々な瞑想があり、神道では瞑想と言う言葉は使わないもののこれに相当する行法(御魂鎮め)がある。
瞑想は医学的にも体を癒して脳の疲れをとり、生命エネルギーを上昇させるだけでなく、アスリートが見せるような人知を超越した能力を時としてもたらす。
瞑想によってα波が上がると各種免疫があがることが現代科学では証明されている。
さて、瞑想は釈迦がいた2300年前のインドのさらに古代文明であるいまから5000年ほど前のインダス文明にあったヨーガで始まった。
『輪廻からの解脱』を目的とするヨーガには、以下の8つの段階がある。
ヤマ(禁戒)→ニヤマ(勧戒)→アーサナ(座法・体位)→プラーナーヤーマ(呼吸法)→プラティヤーハーラ(制感)→ダーラナー(集中)→ディヤーナ(瞑想)→サマーディ(三昧・禅定)であり、サマーディ(禅定とは中国語による意訳、三味は音訳)で、これがヨーガの最終目的である精神が究極的に統一された状態を指している。
この世界になると、心がまったくの静寂に包まれて雑念が完全に除去され、「梵」と「我」が一つにつながった理想の境地になる。
ご存知の通り、釈迦は王子であり大変恵まれた環境だったが、人生には四苦(生病老死)があることを知り、出家してこれから逃れようとするのはご存じの通りだ。
そして、苦行をすればこれから逃れられると思い、6年の間に呼吸をしばらく止める行、太陽の直射日光を浴びる行、片足立ち続ける行、断食行などを行い、釈迦は過度の快楽が不適切であるのと同様に、極端な苦行も不適切であると悟り、ナンジャラー川で沐浴しスジャータという女性が献上したミルク粥を食べ健康を取り戻した。
そこで菩提樹の根元に座って瞑想し遂についに『十二支縁起』を悟り、そのために『四諦八正道』をおこない、瞑想の段階として『九次第定』があることを知しった。
そう、 瞑想のレベルには9つの段階があると仏教では考えているのだ。
これを私が分かりやすくしたのが左の図だ。
一番上の段階を『非想非非想処』で、瞑想における最高の境地であり、非想は思わないこと、非非想は非想を同時的に否定するで、つまり思わないことは「思わない」ことを思うことであるから、これをさらに否定した、思想が無になった境地だ。
さらに、釈迦は入滅に際し、その最上位の上を行く『滅受想定』に至ったと言われている。
『滅受想定』には、色界も無色界なく、太陽も月も存在せず、つまり宇宙すらなく、この世もあの世もなく、物理的作用も反作用もない、ここが苦の終止(一切皆苦)だと釈迦は断じている。
皆さんお気づきかもしれないが、これが宇宙の始まりのビッグ・バン以前の、正に『空』の状態が『滅受想定』だ。これを釈迦は解脱といった。
ところが多くの仏教の伝承(昔はすべて口伝)やその後の書物や研究から、釈迦が悟りを開いたのは最も超越的な境地と言われるこの滅受想定ではなく、色界第4禅である、と言われてる。
釈迦が亡くなる時も第4禅だった、と言われています。
これを変性意識状態と現代脳科学では言う。
丁度、乳幼児が一心不乱に積み木をしていたり、犬が臭いをクンクン嗅いでいたり、我々がカラオケで絶叫して快感になっている状態だ。
なぜ、色界の瞑想の最上位やその下の無所有処や識無辺処ではだめで、第4禅であったのだろうか?
色界とは、欲望も物質的条件も超越し、ただ精神作用にのみ住む世界だ。
だからこそ、俗世界のすべての煩悩が消え、悟りを得られるわけだが、一般の人間は人間関係や組織、法律や常識といったものに縛られており、さらにこの縛りによって嫉妬と誤解や勘違いにまみれている。
だからこそ、瞑想をするのですが、瞑想から俗世間に戻ったときに、精神が色界や頂点の滅受想定にいたら、痛みや苦しみも慈愛さえ無くなってしまっているので、それでは社会性が無く、困っている人々を救う事も出来ない。
だから、瞑想をはじめて『初禅』から順次段階を上げて無色界の『非想非非想処』まで来たら、世間に戻るために下の段階に下りてこなければならないのです。そこを第4禅に設定するのだ!
ここでは、我々は欲望から離れて清らかな物質や肉体が存在する世界。これより上に行くと、肉体や物質が存在しない世界になってしまうので、精神はここにとどまらなければならない。
さて、ここまで書いたら、仏教のセミナーだ。
大事なことは、現代科学と紐づけして宇宙のなり始めであるビッグ・バンだけでなく、発生学から見るのだ。
右図の『発生は系統発生を繰り返す』を提唱したヘッケルの図だ。我々は父親の精子と母親の卵子が結合する受精によって、原核生物から真核生物に進化する。
ここが、25億年前の状態と全く同じだ。ちなみに母親の羊水は、この25億年前の海水と同じミネラル・イオン状態であったことが化石のミネラル分析から分かっている。
そして、25億年前の海→原核生物→真核単細胞生物→卵割を繰り返して→腔腸動物→脊索動物→魚類→両生類→爬虫類、とお母さんのおなかの中で宇宙と地球の歴史をキリスト教や古事記の天地創造の通りにダイナミックに行っている。
そして、もう一つの図が脳の比較解剖学による図だ。
だから、犬や猫に出世や物欲という煩悩はすくなく、さらに爬虫類レベルになれば、大脳新皮質そのものが無くなるのでこれらの欲は皆無だ。
そう、これが『九次第定』の無色界に至った時だ。
だから、瞑想するときは、このヘッケルの図をみながら、
人間→サル(下等霊長類)→ウサギ(上等げっ歯類)→ネズミ(原始的はげっ歯類)→トカゲ(爬虫類)
と、自分が進化の歴史を学回りしているイメージで瞑想するのだ。
さらに、魚類までもどってくると脳は脳幹が殆どだ。
ここにある欲は自己保存本能である睡眠欲食欲、そして種族保存本能である性欲くらいしかない。
金銭欲や名誉欲など皆無。
ここより上に行くためには、この種族保存本能すら捨てなければならない。
それが、精子と卵子が受精する瞬間より前に行く、すなわち種族保存本能という最大の煩悩をすてるときだ。
そして、海水のミネラルのイメージが非想非非想処、そしてビッグ・バン以前が釈迦が到達した『滅受想定』だ。
現代の我々は科学、とくに量子物理学の発展でビッグ・バンまで知っている。
釈迦がこれら科学を使わずに瞑想によって『滅受想定』に来たのは正に驚異だ。